かざみきもの学院
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<2010年2月>

 

安心がほしい

学院長  深夜の渋谷センター街、原宿等で夜通し何をするともなく、家に帰らず過ごす中高生たちに声をかけて話を聞いているルポライターの女性がおられます。本音で話を聞いてくれるこの女性に救われている人は多いようです。諭すこともなくただ聞いている。
ある中学生は、「初めて本当に話を聞いてくれた大人」と言っていました。またもう一人に話していた時、「援交は?」の問いに「援交はしていない、お金はもらわない。」「ではどうして?」「その時は安心するから・・・」
「安心」て、そういう時に使う言葉なのか、愛よりももっと基本的なものであることをその時改めて感じました。
別の日に、またこの方のことを取り上げていました。SOSを発した女の子を自宅に連れてきて話を聞いている時、等間隔に何本もあるリストカットあとの腕を見せて、「私なんか居ても意味がないと思って何度も・・・。その血を見て、私もみんなと同じ赤い血が出ると思ってその時安心する。」
みんなの話を真正面から聞いている素晴らしい女性のことも書きたいのですが、今回は何よりこの2人の口から出た「安心」という言葉を聞いた時、震えるほどの怒りと悲しみに襲われました。「違う! 安心なんて言葉はこんなところで使うものではない!」
けれども彼女たちにとっては真実であって、ある意味で「叫び」でもあることも分かります。

 これは、親の問題ももちろんですが、すべてを同じ枠の中に入れ、一つの「ものさし」で計ろうとする学校教育も含め、今の社会にもあると思います。
先生も子供たちをひとまとめにし、その中で勉強、成績という一つの「ものさし」で計り、そこからはみ出る子は要注意。女の子は、フアッションも、言葉も、持ち物も、流行りもの何でも友達と同じでないと孤立し、安心できない。毎日学校で会う友達と、家に帰っても何度も携帯で仲間であることの確認をして安心する。そこからはじかれた子が孤独、自己否定へと陥っていく・・・

 ある中学生を持つ方から聞いたお話ですが、学校は中学1年生から受験のことばかり。
生徒数も少なく部活がないので、ある先生が自由参加でしたい子達に野球を教えていたら、上からやめるように言われた。その方曰く「志の高い人が潰される・・・」

 私が小学生の時のことで、はっきり覚えていることがあります。ガキ大将とも言えないけれど勉強は嫌いで、いじめっ子(今の陰湿ないじめではない、いたずらっ子?)で、みんなによく思われていない男の子がいました。ある日、授業の中でお味噌汁を作る時、その子が、手のひらの上でお豆腐を切ったのです。まだそんなこと誰もできない頃でした。その時の衝撃は今でも思い出します。お父さんが居なくて、お母さんが働いている家だったので日頃お手伝いをしていたのでしょう。子供心なりに、その子の中に温かいものをどこかで感じ、ちょっぴり尊敬し、見方が変わったような気がしました。

 勉強は嫌いだけど、運動は得意、物を作るのが好き、感性の豊かな子 土いじりの好きな子、そしてまた、人をまとめるリーダー的存在の子 黙々と何かのお世話をしている子・・・色々な子が居て、それぞれ優れているところがあるはずです。
小さい時に褒められ、認められて、うれしくてその道に進んだ人が案外多いようですが、その人は本当に幸せだと思います。
志の高い先生は居るはずなのに、やはり潰されるのでしょうか。

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 このことを書いていて、夜回り先生といわれる水谷修先生のことを思い出しました。前に、松山にも来られ講演会でお話を聞かせていただきました。今も病気と闘いながら 命をかけて多くの子供たちを救っておられます。  

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 あの少女たちの声が聞こえるような気がします。
「1人でもいいから、私の目を見て話を聞いてくれる人がほしいだけなの!」

 

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渡部捷子

渡部捷子へのメールは watanabe@kazami.com まで

 
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